東武熊谷線の駅
東武熊谷線には全長10.1kmの間に熊谷−上熊谷−大幡−妻沼と4つの駅がある。
熊谷
本来、熊谷線は高架化して秩父線に平行して熊谷駅に入る計画だった。しかし、新しくホームを建設するには余りにも日数と費用がかかり過るため、急がせる軍の要望を受け、秩父線のホームを借りて昭和18年12月5日に営業を開始した。
熊谷−石原駅間の複線敷に線路を敷設、これを熊谷線の仮線として秩父鉄道から東武鉄道が借用して運転することになった。軌道は秩父鉄道から東武鉄道が委託され工事を施行した。
ホームは熊谷駅構内を一部改良し、羽生方面側の一部を熊谷線に使用させることになった。
秩父鉄道が複線運転をする時、又、熊谷線利根川橋梁工事が完了した時には返還するという条件で、昭和17年12月10日協定書が交わされた。
東武熊谷線ホームは、その後、廃線を迎えるまで秩父鉄道・羽生方面ホームの西方、階段付近でそのまま変わることはなかった。
全業務を国鉄に委託しているため、東武としては駅長・駅員とも無し、という状態だった。
上越新幹線の開業による駅舎の大改築まで、熊谷線は4番線に停車(改築後は高崎線が2面4線化されたため、7番線に改称)。国鉄高崎線とも改札を出ることなく乗換えが可能だった。国鉄のホームとは離れており、間に貨物用の側線が何本も引いてあった。跨線橋を渡って秩父線・東武線ホームへ降りるところにあった「新堀ギター」の看板が幼少のころの私には不気味に見え、いまだにはっきりと脳裏に浮かんでくる。
上熊谷
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上熊谷駅は、秩父鉄道の駅として昭和8年4月1日に開設された。開設当初は「鎌倉町駅」といったが、その後同年7月1日に「上熊谷」に改称された。 秩父鉄道は明治34年10月7日より熊谷−寄居間の営業を開始したが、それに先立ち熊谷、石原、大麻生、武川、小前田、寄居の6駅だけが明治32年11月8日に開設されている。その後、大正、昭和を通して羽生方面、三峰口方面と開業し、駅も34開設された。近年「広瀬野鳥の森」駅が開設されるが、当時一連の開設駅としては「上熊谷」が最も新しく、34番目の駅である。 東武熊谷線は秩父線の北側ホームを借りて営業、ならびに総ての業務を秩父鉄道に委託している。そのため、熊谷駅同様、駅長も駅員もいない。 昭和53年の新聞記事によると、熊谷−上熊谷駅間の料金は80円、上熊谷駅を利用している東武熊谷乗降客は1日190人だった。 キハ2000型のサボは「妻沼−熊谷」という表示のみのため、寄居から秩父線で上熊谷に着いたとき、熊谷線が反対ホームに止まっていたにもかかわらず、どちら行きなのか不明だったため乗り換えないでいたら、当時住んでいた大幡方面に熊谷線がゆっくりと発進して行った、ということがあった。 |
大幡
大幡駅は、昭和18年東武熊谷線の開通に伴い、第一期工事の一環として鹿島組が請負い開設した。熊谷線には熊谷、上熊谷、大幡、妻沼と4駅あるが、前者2駅は借用しているので、独自の駅舎は大幡と妻沼の2箇所だけである。 熊谷駅を出てしばらくは住宅密集地を走るが、上熊谷を過ぎるとのどかな田園地帯に入る。大幡駅まで熊谷から9分、妻沼まで7分。料金は58年当時熊谷から大幡まで100円、大幡から妻沼までも100円だった。 大幡駅は18年に開設され、駅長(助役)も駅員もいる駅だったが、29年、蒸気機関車からディーゼルカーへの交換に伴い、同年12月から無人駅になってしまった。田んぼの中に駅舎がポツンと建っている状態だったので、利用者も少なく、切符等は車内販売で車掌が扱うことになった。 ところが、38年に熊谷市立女子高が開校し、更に46年に220世帯というマンモスの大幡市営団地(私も住んでいました)が建設されると周辺も急速に宅地化が進み、熊谷線の利用者も急増するようになった。 昭和52年当時の新聞を見ると、朝夕は特に通勤、通学者で賑わい、一日の乗降者は880人であったという。 そこで、東武鉄道では駅前で雑貨屋を営む高田クニさんに、51年5月から切符販売を委託し、利用者の便を図ることにした。 高田クニさんのご主人、己之作さんは昭和20年1月大幡駅に転勤、その後2年間駅長を勤めていたが、急性肺炎になり42歳の若さで亡くなってしまった。クニさんは昔の縁もあり、東武鉄道からの委託を受け「きっぷ販売所」の看板を掲げるようになった。朝夕の利用者の多くは定期券を持つ人が殆どだが、昼間は熊谷市街へ買い物に出かける主婦たちが利用(私もよく母に連れられ、上熊谷の八木橋百貨店、Kマートや熊谷駅前のニチイ・丸井などに行ったものです)するくらいで一日20枚程の切符が売られていた。 高田クニさんは、その後廃線の日まで妻沼駅長の管理下で委託を受け、トイレの掃除に至るまで大幡駅の管理を続けてきた。 その功績を認め東武鉄道では高田クニさんに廃線の日、58年5月31日付の感謝状と記念の東武鉄道の徽章が付いているミニチュア帽子を贈った。 駅舎について 大幡駅の建物は、昭和18年東武熊谷線の営業開始にあわせ建設された。妻沼駅と同じような造りで、入り口に張り出し屋根のある瓦葺き平屋だった。 車掌の田島宏氏は、「大幡駅と妻沼駅はよく似ていて、夜遅く酔っ払って帰ってきたお客さんは妻沼駅と間違えて降りてしまい、後を追いかけて、また列車に乗せてあげたものですよ」と語る。 29年12月以降、無人駅になると荒れてしまい窓ガラスは割れ、壁は落ち廃屋同然になり、52年3月取り壊された。ホームはアスファルトに替わり、同年4月1日より、雨除け屋根の付いた待合室とトイレが供用開始となった。 |
妻沼
東武熊谷線は全線10.1kmと短い距離なので、熊谷、上熊谷、大幡、そして妻沼とわずか4駅しかない。始点は熊谷で、終点は妻沼である。そこで、熊谷へ向かう列車が上り、妻沼へ向かう列車が下りである。終点妻沼駅には、駅員、運転士、車掌、保線作業員の詰所などが集まっている。駅舎は、昭和18年の開業時に建てられたままで、旧大幡駅舎はこの妻沼駅によく似ていたという。 マイカーの普及で、妻沼線の利用者は減少し、易者もひっそりしてしまったが、かつては、春・秋の聖天様の祭礼の日や、熊谷の花火の夜などには、近在から人が集まり、長い行列ができ一日中賑わいをみせていた。 給水そう 妻沼駅構内には、蒸気機関車当時の給水そうが残っていた。昭和18年の開通に間に合わず、機関士助手が井戸からバケツで水を汲み上げ、タンクいっぱいにしてから出発していたという。気動車になり、水や石炭を使わなくなってからも給水そうは壊されず、そのまま残された。 |
出典:写真に見る東武熊谷線 平成4年3月 熊谷市立図書館 編
写真:菊地正信氏 撮影
←「かめのみち」整備前の高崎線オーバークロス部廃線跡(撮影:保虎南氏)